中国と日本、言語文化差異
日本の社会でよく耳にするのは「すみません」という言葉だ。電車で、道で、人に声をかけるとき、いつもその言葉が聞こえる。それによって、日本の社会の小さないざこざを滑らかに静め、大きな衝突に至らないのであろう。
以上のことは、日本の一般的な社会でのことだが、会社と言う限定的組織内では、責任の縄張りもあり、上下関係の問題もあって、みなが同じ目標を目指しているときには、まるで「はい」と「すみません」だけの言葉で通じているように思われることがある。一般社員と会社の上層部との関係について言えば、日本では一般社員は上層部の取り決めに絶対服従しなければならない。そうでなければ、辞職するしかない。上層部との駆け引きは不可能である。
私(管理人ではない)が仕事をしているラジオ日本・国際部に、中文科を卒業した女性がいる。彼女が入社した時、上層部は彼女にベトナム語放送を担当させた。彼女も他の日本人と同じようにおとなしく上層部の決定に従った。仕事上で必要なので、彼女は喜んでベチナム語を勉強し、同僚に教えを請うなどしている。このようなことは中国では想像できないことだと思われる。
仕事上で分からないことが出てきた場合、「すみません、わかりません」と言っても間違いではない。ただし、分からないと言って、そのことが終わるわけではなく、後でそのことを明らかにしなければならない。これは道を尋ねられた時と違うところである。
もし、その分からないことが一般的な常識の範囲である場合、日本人はとても恥じ入り、「すみませんでした」などと言う。日本では責任逃れをしたりする時、「誰も私に言わなかった」とはめったに言わない。
日本で、「誰も私に言わなかった」と言う場合は、責任逃れと言うよりは、皆からいじめられて不満を言っていると言った方が当たっている。つまり、皆があることを故意にその人に教えなかった時、このような文句をよく聴く。
中国においては、このようなことは比較的少ない。多いのは自分が得た最新情報を誰にも教えないか、あるい奥の手として取っておくことである。このような状況では人に教えを請うても、特別に親しい関係でないかぎりは、誰も教えてくれない。中国ではしばしば「誰も私に言ってくれなかった」と言うのをよく聴く。
中国人がこのように言う時は責任逃れをする時か、他人を恨む時で、私を責めるなと言う意味である。
「知りません」という言葉についても、日中間には大きな違いがある。善しあしを別として、日本人のこの言葉に対する態度は職業上の教育と、競争社会が生み出した結果だと思われる。

